その日、いつものように僕は下北沢の行きつけで、いつもの馬鹿な仲間達と、馬鹿話と美味い酒と旨い料理を堪能した。年も差し迫った忘年会だった気がする。下北沢組は6人、別件で川崎でも忘年会が催されており、その仲間からも電話やE-mailが飛んできていた。ともあれ、良い酒だった。みんな、独りになればため息をつく程度の悩みをいくつか抱えているけれど、仲間が集まったら、始終、笑いっぱなしだった。
僕は、今でも肉体的な衰えはまったく感じないが、この頃、どうにも精神的な衰えが忍び寄ってきているのを、ハッキリと感知している。しかし、この当時は、とりわけこの夜は。心も身体も絶好調だった。帰りの小田急に1人になってからも、仲間が語った馬鹿話に、思い出し笑いをした。さらに、軽い空腹をも感じていた。

上機嫌で、博多天神屋の暖簾をくぐった。酔客向けの博多ラーメンの店だ。細麺をするする啜った。明太子をつみまにして、小瓶のビールを飲んだ。店のTVでは、一年を振り返るニュースが流れていた。僕は、TV音声を完全なBGMにして。また、思い出し笑いをした。

そろそろ、帰ろう。電車が年末ダイヤに変更されている事を思い出し、急ぎ足でホームに向かった。その刹那。何かが。僕に警告してきた。でも。何だろう。何か、忘れ物をしたっけ? 虫の知らせとは、また違う。何かが。

駅員が、独特の節回しで、埼玉県の奥地へ向かう電車は、最後だとアナウンスしている。これを逃せば最後。もう、埼玉の奥地にある自宅へは帰れない。タクシー代もホテル代もない。僕は何かの警告を無視して、最終電車に飛び乗った。車中でも、僕は上機嫌で、大好きな声優さんのラジオを聴いてにやにやしていた。にやにや。何か、忘れ物をしたっけ?

高田馬場を電車は出ていく。川崎組の1人から、今度は下北沢組の仲間と合わせるようにとのmailが入った。僕は、相づちを打つように返信する。あれ、何か。最終電車は、各駅停車である。急行運転をしても、埼玉の奥地には50分以上もかかる。
各駅停車だったら、どうなるのだろう。

落ち着け。まだ、どうというレベルではない。僕は大好きな声優さんのラジオを止めて、iPodのホイールを回転させた。ジョージ・ウィンストンのピアノ。そう、これでいい。癒される。

終電車は、各駅停車である。途中下車すれば最後。もう、埼玉の奥地にある自宅へは帰れない。

落ち着け。まだ、騒ぐ程の事じゃない。でも。ジョージ・ウィンストンのピアノでは、少しパワーが足りなくなってきたようだ。iPodのホイールを回転させて、上妻宏光津軽三味線に切り替えた。ハードロックと伝統楽器の見事な融合。それに。そう、このリズムだ。これに。指先をシンクロさせよう。

終電車は、各駅停車である。途中下車すれば最後。もう、埼玉の奥地にある自宅へは帰れない。

mailが入った。仲間の1人が、無事にタクシーで帰宅したらしい。どうでもいいんだよ、そんな事は!!!! タクシーで玉突き事故でも起こしてろよ!!!!

耳鳴りがしてきた。もう、音楽は駄目だ。しかし、まだ大丈夫。僕は人間だ。捕虜になるよりも死を選ぶ。そうだろう? え、死?

いくら暖房が効いている車内でも。この汗の量はおかしくないか。対照的に、酔いは完全に抜けていた。胃腸も問題ない。未だに軽い空腹を覚えるぐらいだ。でも。膝が不自然に、かくかくと揺れ出したのは何故だろう。

mailが入った。仲間の1人が、乗り過ごして歩いて帰る途中らしい。どうでもいいんだよ、そんな事は!!!! 永遠に乗り過ごして、エジプトにでも逝ってろ、ファック!!!!! 貴様に最悪のニューイヤーが来るようにサタン様に祈っといてやるぜ!!!!!

数メートル先に座っていたおじさんが、断末魔のうめきとともに嘔吐した。電車内のゲロ。通称、電ゲロである。だが。たかが電ゲロである。僕には、人としてのあらゆる尊厳を奪われ、鎖に繋がれ、奴隷として過ごす人生が訪れようとしていた。ゲロごときで、泣くなよ、オヤジ!! アンタ、かっこいいぜ!! その年で吐くまで飲むなんてよ!! そのまま床とファックしてろや、糞がっ。

膝が。本格的に嗤い(わらい)だした。いいだろう。そろそろ勝負をつけようじゃないか。僕は、奥義を使う事を決意した。禁断の呪文を高らかに詠唱しはじめる。もう、何も考えなくていいんだ・・・。

えっさえっさ えっさほいさっさ お猿のかごやだ ほいさっさ 日暮れの山道 細い道 小田原提灯 ぶらさげて ソレ やっとこどっこいほいさっさ ほーいほいほい ほいさっさ ♪
えっさえっさ えっさほいさっさ この葉のわらじで ほいさっさ お客はおしゃれの コン狐 つんとすまして 乗っている ソレ やっとこどっこいほいさっさ ほーいほいほい ほいさっさ ♪
えっさえっさ えっさほいさっさ 元気なかごやだ ほいさっさ すべっちゃいけない 丸木橋 そらそら小石だ つまずくな ソレ やっとこどっこいほいさっさ ほーいほいほい ほいさっさ♪
えっさえっさ えっさほいさっさ のぼってくだって ほいさっさ ちらちらあかりは 見えるけど 向こうのお山は まだ遠い ソレ やっとこどっこいほいさっさ ほーいほいほい ほいさっさ♪

僕は、全身全霊をかけて、呪文を詠唱した。ひたすらに。膝の動きとシンクロさせて。

終電車が発車して、次々と駅の照明が落とされていく。やがて、僕のいる部屋も照明が落とされた。すぅっと暗くなる周囲。僕は、生涯で最高の放尿を完成させていた。ピンチは、去っていった。